事故物件という言葉から想像できる範囲を、この建物は少しはみ出している。入居者がゼロなのは、家賃の設定を間違えたからでも、駅から遠すぎるからでもない。住もうとした人間が順番に出ていったからだ。地元では名前を出せば話が通じる程度には知られた、いわくつきの一棟。
それを東雲薫は、まるごと買った。フリーター生活に見切りをつけて、不労所得で暮らすつもりだった。事情が判明したのが購入後だったところが、いちばん痛い。手元に残ったのは、埋まらない部屋と、毎月きっちりやってくる返済だけになる。
大事なのは、この漫画が「本当は何も出ませんでした」という逃げ道を使わないことだ。出る。はっきりした形で出るし、造形も容赦がないし、対応を間違えれば死ぬ。心霊描写に手加減がない時点で、ホラーとしての骨格は最初から通っている。
そこで普通なら、祓い屋を探す場面に移る。薫が出した答えは違った。人間が住んでくれないなら、幽霊に住んでもらえばいい。理屈としては無茶苦茶なのに、彼女の中では順位がはっきりしている。悪霊より返済。呪いより空室。この一点がずれているせいで、震え上がった直後に妙な角度から笑いが差し込んでくる。
ネタバレなしあらすじ
主人公は東雲薫。一念発起して中古マンションを一棟買いした、駆け出しの大家だ。心霊現象が多発するせいで新規の入居者は望めず、購入した瞬間に経営が詰んでいる。だが彼女は物件を手放さず、業者に丸投げもしない。空いている部屋があり、住みたがっている何かがいる。ならば話は早い、という方向へ舵を切る。
こうして始まるのが、入居霊の勧誘だ。声をかけ、条件を説明し、共用部のルールを伝え、納得したなら部屋を渡す。やっていることは不動産の営業そのもので、相手だけが生きていない。断られることもあれば、話が通じないこともあるし、そもそも会話が成立する段階にない相手も混ざっている。
当然、勧誘は安全な作業ではない。怪異には強さの幅があり、迂闊に近づけば命が持っていかれる。作中では危険度を段階で表す考え方が示され、薫たちはそれを手がかりに、どこまで踏み込めるかを判断していく。恐怖の量が減るわけではない。測る道具が一つ増えるだけだ。
そして部屋が埋まり始めると、物語の重心が少しずつ移動する。脅威として現れたはずの怪異が、生前の事情や未練を抱えた「住人」の顔を見せてくる。管理する側とされる側の関係が、いつの間にか同じ屋根の下で暮らす関係に近づいていく。
一文にすれば、『訳アリ心霊マンション』は、いわくつきの一棟を買ってしまった大家・東雲薫が、危険な怪異たちを入居者として抱え込みながら経営を立て直していくホラーコメディだ。
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作品データ
作者:ネブクロ
掲載誌・出版社・レーベル:新潮社『くらげバンチ』/バンチコミックス
連載期間:2022年5月13日〜連載中
巻数・完結状況:既刊7巻。第7巻は2026年5月9日発売、連載中
ジャンル:ホラーコメディ、心霊、日常
受賞歴:新潮社くらげバンチ編集部主催「第17回くらツイ漫画賞」大賞、「WEBマンガ総選挙2023」第2位、「次にくるマンガ大賞2023」Webマンガ部門4位、「次にくるマンガ大賞2025」Webマンガ部門9位
アニメ化・実写化・舞台化:2026年8月時点で確認されていない
その他の展開:2025年10月にVTuber・白上フブキとのコラボMV制作が発表
シリーズ累計発行部数:公表されている数字は確認できない
続編・スピンオフ:なし。電子版の単行本には巻末に番外編が収録されている
世界観と物語の骨格
舞台になっている世界
舞台は現代の日本で、特別な異界へ行くわけではない。舞台になるのは古びた集合住宅の廊下であり、近所の神社であり、通勤路にあるビルだ。怪異は非日常の奥にいるのではなく、生活動線のすぐ横に混ざっている。だから危険の距離感がずっと近い。
その世界で、薫は圧倒的に有利な位置にいるわけではない。祓い屋の家系でもなければ、修行を積んだわけでもない。持っているのは物件と、返済計画と、腹の据わり方だけだ。専門家から見れば無防備で、当人もそれを分かったうえで交渉に出ていく。
一方で、この建物は薫にとって守るべき資産でもある。逃げるという選択肢が最初から潰れているのが効いている。怖いから離れる、では経営が終わってしまう。恐怖と生活が同じ天秤に載っているせいで、彼女の判断は一般的な心霊ものの主人公とまるで違う形になる。
物語はどう転がっていくのか
各話の運びは、怪異との遭遇から始まることが多い。ただし目的は撃退ではなく、見極めと交渉だ。相手がどの程度危険なのか、話が通じるのか、何を抱えて残っているのか。そこを探る過程がそのまま緊張になる。
危険度を測る基準が作中に用意されているのも大きい。相手の表情から段階を読み取るという発想は分かりやすく、しかし顔を隠す怪異や、そもそも表情のない怪異もいて、基準がある安心と基準が通じない不安が同時に置かれる。この設計のおかげで、恐怖が場当たりにならない。
そして交渉が成立すると、話は一気に生活側へ倒れる。ゴミ出しの当番、騒音、住人同士の相性、仕事の斡旋。命懸けの一歩手前と、管理組合レベルの雑事が、同じ巻の中で肩を並べる。
この落差の作り方が的確で、笑ったあとにまた冷やりとさせられる往復が続く。
この漫画が描いているもの
心霊ものの多くは、出ていってもらうことを目的にしている。祓う、封じる、逃げる。どれも「ここにいてはいけない」という前提の上に立っている。この作品はその前提を、開始数十ページで手放してしまう。
代わりに置かれているのが、居場所の分配という問題だ。誰がどの部屋を使い、どんなルールなら共存でき、どこから先は認められないのか。相手が幽霊だろうと、話し合う内容は結局そこに落ちる。恐怖の対象を、交渉の相手として扱った瞬間に、物語の質が変わる。
だからこの漫画の温度は独特になる。悪意のかたまりに見えた存在にも、残っている理由がある。理由が分かっても怖さは消えないが、扱い方だけは変わる。
倒して終わりにしない選択が、笑いと後味の良さを同時に生んでいる。
この作品が刺さる理由3つ
恐怖を薄めずに、笑いへ持っていく
ギャグを混ぜるために怖さを緩めるやり方を、この作品は取らない。心霊描写はしっかり嫌な形で描かれ、危険度が上がった場面の空気は最後まで重い。
そこへ薫の生活優先な判断が差し込まれると、恐怖が消えるのではなく、向きだけが変わる。同じ怪異が、次のコマでは家賃の相談相手になっている。この切り替えの速さが癖になる。
脅威だった存在が、住人の顔になっていく
入居霊たちは、可愛らしく飼い慣らされた存在ではない。生前の職業や趣味、こじらせた性格、抱えたままの未練がそれぞれにあり、そのまま集合住宅に持ち込まれる。
だから住人が増えるほど、マンションの中の関係が濃くなる。最初に襲ってきた相手と後で普通に会話している状況を、違和感なく成立させているのが上手い。
霊感ではなく、生活の論理で押し切る主人公
薫の強みは霊能力ではない。金勘定と、腹の据わり方と、相手が誰であろうと条件を提示する態度だ。怪異の側が非現実的であるほど、彼女の現実的な反応が効いてくる。
特別な力で解決しない主人公が最後まで折れないので、話が進んでも作品の芯がぶれない。
こんな人には特におすすめ/合わないかもしれない人
おすすめしたい人
ホラーとコメディが同じページで切り替わる作品を探している人
怪異に事情や背景があるタイプの心霊ものが好きな人
力技ではなく交渉や工夫で切り抜ける主人公に惹かれる人
現代日本の生活圏を舞台にした怪異譚を読みたい人
連載中の作品を、7巻分まとめて手に取りたい人
あまり合わないかもしれない人
最初から最後まで張り詰めたホラーを求めている人
深刻な場面がギャグで崩れると気持ちが冷めてしまう人
怪異を最後まで倒すべき敵として見ていたい人
完結済みの作品だけを読みたい人
あわせて読みたい、おすすめの作品
恐ろしい怪異と、妙にゆるい日常が同居する作品を読みたいなら
祟り神という本来なら怖い存在と関わりながら、恐怖と笑いが同じ場面の中で自然に切り替わっていく。
➤【令和のダラさん】
現代の日常に、本気で怖い怪異が入り込んでくる話が好きなら
見えてはいけないものが生活のすぐそばに現れる中で、力で倒すのではなく、独特な方法でその場を切り抜けていく。
➤【見える子ちゃん】
怪異をただ退治するのではなく、その事情や因縁まで追うオカルトコメディに惹かれるなら
人と霊が交わる奇妙な出来事を、笑いを挟みながら描きつつ、それぞれが抱えた背景にも少しずつ踏み込んでいく。
➤【出禁のモグラ】
最後に
買った時点で、このマンションの入居者はゼロだった。空室を埋めなければ返済が回らないという事情も、そこから変わっていない。動いたのは、埋める相手の条件だけだ。
だから廊下では、大家が入居者に声をかけている。共用部の使い方を確認し、うるさければ注意し、困りごとがあれば聞き取る。管理業務としては真っ当な光景で、噛み合っていないのは相手が生きていないという一点だけ。それなのに会話は成立してしまう。
成立してしまうからこそ、危ない相手が現れたときの空気が際立つ。段階の高い怪異と向き合う場面は、笑いの側に一度も寄らない。数ページ前まで軽口を叩いていたはずの物件が、そこで急に事故物件の顔に戻る。
空室は少しずつ減っている。減っているのに、募集の文字はまだ下ろされない。
次に来るのがどんな相手なのかを、この大家はもう楽しみにし始めている。
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