「休みの日は何をしてるんですか」——向かいの席から差し出されたその一言で、男の頭が止まる。相手が椅子に座った瞬間から、呼吸の間隔も、出口までの歩数も、必要になったとき何秒で片がつくかも、すでに把握している。把握できていないのは、この数秒をどう埋めればいいのかということだけだ。
下呂ヒカルは、数百年続く殺し屋の一族「毒使い」の跡取りである。裏の仕事で外したことはない。ただ、幼い頃から一般社会と切り離された場所で育てられたせいで、誰かと向かい合ってただ話す、という経験だけがまるごと抜け落ちている。
その男のもとに、実家から通告が届く。血を絶やさないため、妹に跡継ぎを産ませる、と。妹を裏の世界に近づけないために腕を磨いてきた下呂にとって、これはいちばん避けたかった形の命令だった。だから彼は結婚を決める。恋でも憧れでもなく、妹の人生を守るための手段として婚活が始まる。
そこで手を貸すことになるのが、殺しのターゲットだった凄腕の結婚詐欺師・城崎メイだ。人を信用させ、言葉を選び、距離を詰め、結婚まで運ぶ技術を持っている。その技術を、下呂は真顔で教わりにいく。
婚活の話をしているはずなのに、ページをめくると毒が飛び、特殊な能力を持つ家の者が出てくる。噛み合っていないように見えるこの二つが、進むほど同じ線の上に乗ってくる。
ネタバレなしあらすじ
主人公の下呂ヒカルは、「使い手」と呼ばれる殺し屋たちの中でも最上位に置かれる五大名家、その一角「毒使い」の次期当主だ。毒を自在に扱い、任務の腕は一流。その一方で恋愛経験はほぼ皆無で、女性が相手だと会話そのものが成立しない。強さと生活能力の落差が、そのまま弱点になっている。
物語が動き出すのは、現当主である祖母が、跡継ぎ問題の解決策として妹のアカリを名指ししたときだ。妹だけは表の世界に置いておきたい。その一点で、下呂は自分が結婚するという道を選ぶ。ただし相手のあてはないし、人と親しくなる方法も知らない。
そこで組むことになるのが城崎メイである。仕事のターゲットとして接触した結婚詐欺師で、見せ方も、間の取り方も、言葉の選び方も心得ている。下呂に決定的に欠けているものを、ひととおり持っている相手だ。命を救われた礼として、城崎は婚活アドバイザーの役を引き受ける。
ここから先は、指導と実践の反復になる。服装を直され、会話を組み立て直され、実際に女性と引き合わされる。ところが婚活の場には、下呂と同じく特殊な技能を持つ者たちの事情も流れ込んでくる。縁談がひとつ進むたびに家の問題や他家の思惑が絡み、話は普通に命の危険まで転がっていく。
向かう先は、最高の結婚。そこへ至る道が、たまたま命懸けだったというだけの話でもある。
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作品データ
原作:静脈
作画:依田瑞稀
掲載誌・出版社・レーベル:集英社『少年ジャンプ+』(ジャンプ・コミックス)
連載期間:2022年4月20日〜連載中
巻数・完結状況:既刊18巻(2026年7月3日発売分まで)。未完・連載継続中。第19巻は2026年10月2日発売予定
ジャンル:バトルアクション/バディもの/婚活
アニメ化:2025年10月にテレビアニメ化が発表。第1期は2026年4月7日〜6月30日、カンテレ・フジテレビ系「火アニバル!!」枠ほかで全13話が放送。アニメーション制作はボンズフィルム、監督は堀元宣。下呂ヒカル役は石谷春貴、城崎メイ役は若山詩音。第2期は2027年1月より放送予定
実写化・舞台化:2026年8月時点で確認されていない
受賞歴:「次にくるマンガ大賞2022」Webマンガ部門第8位、「出版社コミック担当が選んだおすすめコミック2023」第5位
シリーズ累計発行部数:全世界累計100万部突破(アニメ公式発表)
続編・スピンオフ:なし
世界観と物語の骨格
舞台になっている世界
見た目は現代の日本だ。街並みも、店の内装も、婚活の段取りも、こちらの生活と地続きに見える。その裏側に「使い手」と呼ばれる殺し屋の世界が敷かれている。毒、水、獣といった系統ごとに家があり、頂点に五大名家が置かれる。表の社会は、その存在を知らないまま回っている。
序列で言えば、下呂の位置はかなり上だ。名家の跡取りで、実力も折り紙つき。ところが同じ人間が、婚活の場ではいちばん頼りない側に回る。家の看板は、初対面の相手の緊張をほぐす役には立たない。彼が本当に分の悪い勝負をしているのは、戦場ではなく日常のほうだ。
しかもこの世界では、結婚が個人の問題として閉じてくれない。誰と縁を結ぶかは、そのまま家同士の力関係に響く。下呂の婚活が私事で済まないのは、そのためだ。
物語はどう転がっていくのか
進み方は素直だ。城崎が課題を出す。下呂が実行する。だいたい失敗する。その過程で他の使い手や依頼人の事情が噛み合い、気づけば戦闘になっている。ここをひとつ抜けるたび、下呂の人付き合いの解像度がわずかに上がる。
面白いのは、刃を抜く理由が婚活の側から出てくることだ。相手を守るため、相手の事情に踏み込むため、あるいは自分がどういう人間として見られたいかを決めるため。戦う動機と人間関係の動機が同じ場所から生えている。だから戦闘が始まっても、婚活の話が中断された感じにならない。
画面の力も大きい。依田瑞稀の作画は、能力の効き方が一目で伝わるうえに、決めゴマの切れ味がある。婚活のぎこちなさで笑わせた直後に、温度の高い戦闘へ振り切る。この落差が十八巻を重ねてもへたっていない。
この漫画が描いているもの
下呂が積み上げてきた技術は、すべて一方的に完結する種類のものだった。標的の同意はいらない。結果は自分の腕だけで決まる。結婚はその逆で、どれだけ精度を上げても最終的な判断は相手の側にある。この作品が彼に突きつけているのは、そこだ。選ぶ立場にしかいなかった男が、選ばれる側に立たされる。
城崎の存在が、問いをもう一段ややこしくする。詐欺師の技術は、自分を良く見せるための技術だ。服も、話し方も、覚えれば効果は出る。ただし覚えるほど、本人からは離れていく。婚活で使う武器が嘘に近いなら、その先で成立した関係は何なのか。作品はこの矛盾から目を逸らさない。
そのうえで効いてくるのが、下呂の不器用な真面目さだ。空気は読めない。気の利いたことも言えない。それでも、目の前の相手を雑に扱わない。婚活相手として登場する女性たちが守られるだけの立場に収まらないのも、同じ線の上にある。彼女たちにはそれぞれの事情と、譲れない一線がある。
この作品が刺さる理由3つ
婚活とバトルが、同じ理由で動いている
異能バトルと恋愛を組み合わせた作品は珍しくないが、たいていは二本のレールが並走する。この作品は婚活で起きたことが戦いの原因になり、戦いで見せた姿が婚活の結果を左右する。切り離せない作りになっているので、どちらを目当てにしても、もう片方が寄り道にならない。奇抜な設定だけで押し切る漫画ではないと分かるのは、この噛み合い方を見たときだ。
下呂と城崎の、まだ信用しきっていない距離
殺し屋と結婚詐欺師。手を組む理由のなかった二人が、いつの間にか手放しがたい組み合わせになっていく。城崎は面倒見がいいのに底が見えず、下呂は教わったことを馬鹿正直に実行して的を外す。それでいて、最後に相手の心を動かすのは城崎仕込みの技巧ではなく、下呂本人の生真面目さだったりする。この逆転が起きる瞬間が、毎回気持ちいい。
強い主人公の、未完成な部分だけが伸びていく
弱かった主人公が強くなる話は山ほどある。この作品は順番が逆で、戦闘力はほぼ完成した状態から始まり、人として遅れている部分だけが少しずつ育つ。人を倒せるのに、好意の伝え方が分からない。そのいびつさがあるから、会話が一往復多く続いた、という程度の前進が、派手な勝利より記憶に残る。
こんな人には特におすすめ/合わないかもしれない人
おすすめしたい人
設定の突飛さと中身の真面目さが両立している漫画を探している人
バトルもコメディも手加減しない作品が好きな人
不器用な主人公が人付き合いを一から覚えていく話に弱い人
相棒二人の関係を軸にして読み進めたい人
アニメを見て、その先の展開を原作で確かめたい人
あまり合わないかもしれない人
現実の婚活に近い手触りの恋愛漫画を求めている人
戦闘や流血の描写を避けたい人
完結済みの作品だけをまとめて読みたい人
主人公と誰かの関係が早く定まってほしい人
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殺し屋なのに、まともな人生を守ることのほうが難しいアクションコメディを読みたいなら
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➤【ダンダダン】
最後に
向かいの席で伸びた数秒は、この先も何度でもやってくる。趣味を聞かれ、休日の過ごし方を聞かれ、そのたびに下呂は言葉を探すことになる。城崎に教わった正解は頭に入っているのに、口から出るのはたいてい別のものだ。
覚えた台詞は便利で、覚えた分だけ本人から遠ざかる。それでも下呂が差し出してしまうのは、削り落としておけと言われたほうの部分だったりする。菓子の話を始めてしまう。相手の事情に踏み込みすぎる。婚活の作法としては、どちらも減点だ。
その脱線に、向かいの相手が少し笑うこともある。笑わないこともある。どちらに転ぶかは、そのつど違う。
毒の調合を覚えた指が、菓子の包みを丁寧に開けている。その手つきには、五大名家の序列も、一族の看板も乗っていない。
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